古墳時代の安房地方では、墳丘のような大きな古墳はあまり造られず、有力な豪族は海食洞穴を古墳のかわりにして葬られたようです。昭和10年に館山の北下台(ぼっけだい)洞穴で人骨や刀が掘り出され、副葬品としての勾玉や菅玉が残されていますが、ほかにも出野尾洞穴・鉈切洞穴・大寺山洞穴が墓として利用されました。
とりわけ大寺山洞穴には12基の舟形木棺が安置され、三角板革綴(かわとじ)式の甲冑が副葬されていたことが注目されています。5世紀前半に畿内の大王に服属してから、7世紀前半に至るまでの何世代にもわたって、この洞穴墓に舟形木棺を据え続けた豪族がいたということです。古墳を造らず洞穴に葬るところに他界観へのこだわりがみられます。鏡ヶ浦に面したこの墓の主は、東京湾出入口の海上を活動の場とする海人族のリーダーだったようです。その役割をもって大和朝廷の関東進出を支えた勢力になったのだと思われます。「淡水門(あわのみなと)」として海上交通の要衝だった鏡ヶ浦を支配した勢力が、この地域の有力者になったのです。
101.館山北下台(館山市館山)出土遺物 古墳時代
東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/
※以下101の写真
大寺山洞穴(館山市沼)
102.大寺山洞穴出土遺物 古墳時代
館山市沼・総持院蔵
※以下102の写真
103.大寺山洞穴船形木棺の出土状況
当館蔵