鏡ヶ浦の周辺には、古代から近代にいたる遺跡や古社寺など、数多くの史跡が点在しています。さまざまな時代の多様な種類の史跡が、鏡ヶ浦周辺にはとりわけ集中しています。その種類の豊富さは、安房の歴史上における鏡ヶ浦の重要性を表しているといえます。ここでは、鏡ヶ浦周辺にどのような史跡が点在しているのかを紹介します。
海に面した安房にとって欠かせないのが湊の存在です。まさに人や物・情報などが行き来をした玄関口でした。鏡ヶ浦では平久里川の河口が古代の湊「淡水門(あわのみなと)」として知られています。戦国時代になると船形や高の島で、船がかかる湊が確認されています。安房では鏡ヶ浦が海上交通の要衝としての重要な役割をはたしていました。 歴史の古い社寺も数多くあります。東京湾を行き来する人々が信仰した洲崎神社(洲崎)、海上を生活の場にする人々が信仰した崖観音(船形)・那古観音(那古)・鉈切神社(浜田)、湊の歴史を伝える国司神社(沼)、鎌倉文化を伝える小網寺(出野尾(いでのお))など、みな鏡ヶ浦周辺ならではの由緒をもつ社寺です。
古代の生活遺跡は数多くありますが、その多くは丘陵端の高い場所で確認されています。縄文時代の稲原貝塚(館山市小原)や漁労活動の様子がわかった鉈切洞穴遺跡(浜田)縄文海岸が出た加賀名遺跡(加賀名)、古墳時代の祭祀が行なわれた東田遺跡(上真倉)などでは発掘調査が行われました。
古墳時代の遺跡には安房独特の洞穴遺跡も多く、海の道を支配した古代権力者の墳墓として注目される大寺山洞穴墓(沼)のほか、北下台(ぼっけだい)(館山)や出野尾・波佐間(はざま)など鏡ヶ浦南部でみられます。また汐入川中流の東田遺跡(上真倉)では、古代豪族クラスの住居跡も確認されています。
平久里川をさかのぼると、古代安房国の役所である国府跡(三芳村府中)や国分寺跡(国分)が、海から五列目の砂丘の上に立地しています。同じ砂丘上では、鎌倉時代の北条得宗家(とくそうけ)ゆかりの萱野遺跡が確認されているほか、平久里川の支流滝川の流域には、戦国大名里見氏の安房支配の拠点だった稲村城跡もあります。
戦国時代の城跡はほかに、城下町が成立した館山城跡(館山)や、船形城跡(船形)・北条城跡(北条)などがあり、そこにはそれぞれ江戸時代に、大名の支配役所である陣屋がおかれました。安房を支配するための各時代の遺跡は、古い湊の周辺に集中しています。
また、鏡ヶ浦をめぐるように配置された幕末の海岸警備の砲台跡や、太平洋戦争時の軍事施設跡などは、首都江戸・東京を防衛する機能があったことを伝えています。
これらの史跡は、いづれも鏡ヶ浦が育んだ史跡だといえます。