戦国時代末の永禄から天正頃の資料に「楠見下」や「新井ノ島」と表現される湊がありました。江戸時代の資料には「高之島湊」と記されます。高の島の東南にあたる海域で、柏崎から新井にかけての海岸から数百メートル沖合をさしています。水深が深いうえ、沖の島と高の島が房州特有の強い西風を防ぐことから、江戸時代には諸国の廻船が風避けや日和り待ちに利用していました。大正頃までは、ここに多くの船が輻湊する姿がみられたのです。
湊としての歴史を記録でさかのぼることには限界がありますが、伝承を利用すると、すでに平安時代には湊として利用された形跡が浮かび上がります。高の島にもっとも近い柏崎にある国司神社の伝承によると、嘉保3年(1096)に国司として安房国に赴任していた源親元(ちかもと)が、任を終えて帰京するとき、柏崎から船に乗ったこと伝えています。平安時代には湊としての機能があったことが伝承のなかに読み取れます。
その後、戦国時代には館山城の水軍の湊として活用されたと思われますが、戦乱が終わると、里見義頼がこの湊を安房国内の流通拠点として整備をはじめ、次代の義康が城下町を建設することで、高の島湊は安房国の経済をささえる湊としての役割をもつことになりました。
しかし里見氏の滅亡後は、米や薪炭・魚などの物資の江戸への積み出しと、避難港としての役割が主体になりました。仙台藩では廻船の世話や荷物の管理をする廻米役所を館山上町に設け、また盛岡藩でも柏崎の南部屋を穀宿として、廻船の管理にあたらせるなど、東北諸藩の廻船が高の島湊を利用していた様子がわかります。
湊の設備としては、元禄の地震以前には、柏崎から高の島に向けて船掛りの土手があったと伝えられています。地震で崩壊後は再建されることがありませんでしたが、高の島の南方に砂が吹き溜って浅瀬になり、船の掛り場が島から東方へ離れるようになって危険が増したことから、文政11年(1828)に土手の再建計画がもちあがりました。東京湾へ入る廻船からの賛助金の微収や、高の島湊を利用する近隣の村々や船持ちからの寄付金、館山藩からの御用金の借用など、資金調達も進められましたが、実現はしなかったようです。しかし天保2年(1831)に刊行された房州図には、高の島湊に高の島へむけての土手が描かれています。工事が進められていたのでしょうか。
46.国司神社の祭神 源親元像
個人蔵
47.房州図(部分) 天保2年(1831)
当館蔵
48.房州高之島湊普請助力帳 天保2年
当館蔵