道路整備

 起伏の多い丘陵地の房総半島では、江戸時代までの陸上交通はいくつもの峠道や難所があり、江戸とを結ぶ街道の整備はすすみませんでした。明治10年代になって峠道の切り下げや拡幅、隧道の開鑿が地元町村の努力で行なわれるようになり、多少利便性の向上がはかられるようになりました。しかし荷物の搬送は人力や牛馬にたよるもので、大量迅速輸送の方法はなく、遠距離輸送の役割は長く船便や鉄道が担っていました。

 戦後になると、急速な経済発展のなかで、自動車の普及と道路の舗装や自動車専用道路の整備がなされ、貨物輸送は鉄道から道路に移っていきました。館山でも高度成長の時期から市街地やその周辺で道路の新設や拡張整備がすすめられ、鏡ヶ浦周辺では、昭和36年に船形港から館山港までの海岸道路がつくられ、昭和41年には洲崎から和田までの観光道路としてフラワーラインが開通しています。しかし東京周辺とをむすぶ道路の整備は進まず、流通システムの変革と地場産業の変化にともなって、物資輸送自体も次第に縮小していきました。

 東京周辺とを結ぶ道路整備はすすまないものの、市街地周辺の道路整備はすすんでいき、平成5年には富浦から北条までの館山バイパスが供用を開始します。自動車は日常的な足となって人々の行動範囲を広げていき、商業施設も郊外にできるようになると、繁華街は拡散していきました。

65.フラワーラインの開通式

65.フラワーラインの開通式
当館蔵

戦後の新道
戦後の新道