房総を支配した戦国大名里見氏は、東京湾に面したところに、重要な城をいくつももっていました。それは陸の道と海の道の接点になる湊をおさえる意味でつくられたものでした。
里見氏の初期の居城だった稲村城と、最後の居城になった館山城は、ともに安房を支配するための城でしたが、稲村城は平久里川河口につながり、館山城は高の島湊をかかえる城でした。ともに陸上交通と海上交通との接点をもつ場所にあったのです。
稲村城は国府の機能を引き継ぐ場所に立地していましたが、館山城では流通拠点として高の島湊を開発し、市場としての城下町を新たに建設することで、新しい安房支配の城をつくりました。里見氏の館山城下町づくりは、商船の入港を城下のみに限る強引な政策でしたが、5年で館山から長須賀・北条まで町を拡大し、現在の市街地の核を成立させたのです。
下105の里見義頼書状の天正年間(1580年頃)では、館山城はまだ海の番城でしたが、下の里見忠義の法度がでた慶長11年(1606)には、楠見・新井の館山町から長須賀・北条にも商人が居住するようになっていたのです。館山城下町は湊がつくりだした町でした。
稲村城跡と滝川
105.里見義頼書状 天正年間
当館蔵
107.里見忠義法度 慶長11年(1606)
個人蔵
館山城跡と館山港