館野地区

 シリーズ6回目として館野地区を取り上げました。館山平野の南東部に位置し、奈良時代には安房国分寺が置かれ、安房の中心地として開発が行われた地域です。館野という地名は、承知3年(837年)孝心を朝廷から賞され終身租税を免じられた伴直家主の居があったといわれる地が、館野原と称されているのに因んだものとされています。

 館野地区は、肥沃な沖積平野に農業を営む純農村地域ですが、最近は宅地化も進み、市域の8.2%にあたる8.99k㎡の面積に、人口が3,349人で市全体の6%の人が生活しています。

 集落は、北部・西部の平野部に展開しています。縄文時代の遺跡は海進の影響で南東部の丘陵上にみられるだけで、本格的な集落の展開は弥生時代以降のことになります。奈良時代には安房国分寺が置かれ、中世には里見氏の居城となった稲村城が築かれるなど、長い間この一帯は安房国の中枢となった地域です。江戸時代には、大網・安布里・山本・滝川・大作・国分・稲・加戸・腰越・広瀬の10か村がありました。正徳元年(1711年)には北条藩屋代氏の領内で万石騒動がおきています。また明治維新の改革の中で、長尾藩本多氏が萱野に士族邸を建設しています。明治7年には加戸・稲の2か村が稲村となり、同10年には滝川・大作・山本の3か村が合併して山本村となりました。明治22年に7か村が合併して館野村が成立。館山市と合併するのは昭和29年のことです。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数
昭和35年 平成2年
大網 28 20 27 82
安布里 41 40 57 175
山本 山本 94 125 147 261
滝川 13
大作 15
国分 84 109 108 252
42 55 78 102
加戸 15
腰越 50 62 66 102
広瀬 58 57 63 85
合計 440 468 546 1,059