広瀬(ひろせ)

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 北は三芳村に接し、平久里川支流の山名川流域に位置します。地名は、流砂の堆積した広い瀬によるものとされ、地内東部の水田地帯には北方の九重地区江田から続く条里跡が確認され、上楚里・下楚里・金ケ坪の地名が残り古代から開発されていた地域であることがわかります。広瀬の地名は、正治2年(1200)の文書に「群房荘広瀬郷」としてでてきます。このことから広瀬が群房荘という荘園の一部であったことがわかります。広瀬郷は現在の広瀬や三芳村府中を含む周辺の広い範囲を指した呼称だったようで、この年荘園領主の京都の公家吉田経房から京都の上加茂神社に寄進されました。江戸時代初期の里見氏治政下では、百人衆之頭安西中務や百人衆の本間三右衛門などが知行し、村高310石余。用水は江田村、腰越村と共用で御庄の百入り堰から取水していました。明治元年の村高は420石余。神社は八幡神社があり、中世宝篋印塔の笠や力石などがあります。寺院は釈迦寺があり、室町時代の木造釈迦如来坐像を本尊としています。