国分(こくぶ) 

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 弥生時代から集落が営まれ、合口壺棺などが出土しています。地名は奈良時代この地に安房国分寺が建立されたことに由来するといわれ、国分から北へ延びて三芳村府中にいたるこの地域は、古代安房の中心地として栄え、周辺には条里跡が残り古くから開発された地域であることがわかります。『続日本後記』にみえる伴直家主は萱野の出身といわれ、その住まいが館野原にあったことが、「館野」の地名の由来ともいわれています。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見家一門之頭正木大膳が知行し村高309石余。宝永年間北条藩屋代氏の用人川井藤左衛門が、滝川から国分の溜池まで灌漑用水を引いていますが、藤左衛門の圧政に対して農民は越訴におよび万石騒動がおき、屋代氏の支配を排除しました。明治元年の村高は244石余。明治3年には長尾藩本多氏が萱野に士族邸を建設しています。神社は諏訪神社、寺院は国分寺があります。国道128号から萱野へ入る三差路の橋際には、寛永10年(1798)の道標があります。