疱瘡(天然痘)の予防のために牛痘をワクチンとして用いた予防接種が幕末から行われるようになり、明治になって広がっていった。安政5年(1858)に江戸神田に民間の種痘所が開設されると、やがて幕府の医学所となり、東大医学部へと引き継がれていったが、小湊村(鴨川市)の医師沼野玄昌は幕府の医学所で種痘の免許を得ている。これより前にも保田の岩崎鴻蔵・渋谷玄龍、佐久間の高梨安節、平久里の加藤玄章、館山の鈴木正立、西岬の岡南洋などが種痘の免許を取得して、安房での種痘を行ったという。
72.医学所種痘術免状(慶応3年)
沼野健氏蔵
種痘の技術を習得したので、今後どこで種痘を行ってもよいという許可証。
73.医学所種痘分苗則(慶応3年)
沼野健氏蔵
種痘のための痘苗を分けてもらうときには有償であることや、そのためには医学所で種痘を学ぶこと、免状を受けたからといって、勝手に他人に免状を出してはならないことなどが定められている。
74.医学所種痘術条目(慶応3年)
沼野健氏蔵
年齢に応じた種痘の施し方を定めたもの。初生児は両腕に20個、2歳から4歳は28個、5歳以上は40個とある。
75.医学所種痘後施療条目(慶応3年)
沼野健氏蔵
種痘をして他病を併発した際、種痘の責任にされないように、種痘後も診察をするように定めたもの。
76.千葉病院種痘術免許状(明治9年)
加藤昭夫氏蔵
明治になると政府は種痘の普及を進め、明治10年(1877)に種痘を制度として義務化すると、天然痘は減少していった。千葉県でも明治7年に千葉町に共立病院を設立し、種痘医を養成するようになった。平久里の加藤淳造もそのひとりである。
77.種痘済証(明治10年)
西長田区蔵
左の図は種痘をしなかったために疱瘡を病んだ子ども。赤い敷紙をした神棚に赤紙の御幣が描かれている。右の図は腕に種痘をしたので疱瘡を軽くして免れたという、種痘の効用を説いたもの。一度かかれば免疫ができて二度目はないということだが、生きて回復すればのはなし。疱瘡にかかれば醜い痕が残り失明することもあった。
78.初種痘調(明治17年)
西長田区蔵
80.種痘無料施行賞状(明治40年)
加藤昭夫氏蔵