福沢家は山下村大福院の修験の家で、7世宥範が江戸の中川蒲亭に内科を学んで山下玄門(1855没、84歳)と名乗り、薬方を研究した。また田安家侍医の渡部吉郎に外科を学び、京の賀川満崇に産科を学んでいる。帰郷して地域医療に従事するが、隠居後は江戸で館山藩の侍医となり、予防医学を主眼とする『医事叢談』『養生新語』を著した。玄門の父祐覚(1827没、85歳)も医術を学んでいた。玄門の墓は医学の門人たちによって建てられている。長男専齢が山下村で修験とともに医家を継いだが後継者はなかった。次男玄寿(1857没、40歳)は江戸で医師となった。
82.山下玄門肖像画<『養生新語』(嘉永3年)>
東京大学総合図書館蔵
120.『医事叢談』(弘化3年)
当館蔵
下滝田(南房総市)の山下玄門墓
大円寺(館山市大戸)の山下玄寿碑