安房地方医事年表

西暦 和暦 事項
1594年 文禄3年 この頃、東条新八郎家中の医師玄安が、里見義康の妹の出産を無事に成功させ、真倉郷戸倉(館山市)の所領と戸倉の名字を与えられたという。
1610年 慶長15年 里見家に医師頭里見玄斎、医師大滝陽仙、田島道喜が仕える
1718年 享保3年 北条藩屋代家侍医を勤めた竹原村(館山市)の篠勢玄蕃没す
1725年 享保10年 4岡田村の山口祐益、上真倉村(館山市)の真里谷伝兵衛信重より阿蘭陀流外科の免許状を受ける
  享保中 将軍吉宗、輸入した白牛から薬を得るため、嶺岡(鴨川市)の幕府牧に白牛3頭を放つ
1811年 文化8年 久保村(南房総市千倉町)の医師井上杉長、白河藩の白子梅が岡陣屋の侍医となる
  文化中 長須賀村(館山市)の医師上野主馬、白河藩の波左間松が岡陣屋の侍医となる
1820年 文政3年 久保村(南房総市千倉町)の医師井上杉長、白河藩の藩医となる
1831年 天保2年 小湊村(鴨川市)の産科医沼野玄昌、『産則全書』を著す
1833年 天保4年 久枝村(南房総市)の産科医奥澤軒中、 『産科発明』3巻を著す
    この頃山下村(南房総市)の山下玄門、江戸で館山藩の侍医となる
1839年 天保10年 久枝村の奥澤軒中、江戸の蘭方医坪井信道とともに、平郡内で生まれた双頭児の遺体を解剖する
1844年 弘化1年 8谷向村(南房総市)の眼医者鈴木道順、『撥翳鍼訣』を著す
1846年 弘化3年 館山藩侍医の山下玄門、『医事叢談』3巻を著す
  嘉永中 谷向村の鈴木道順、浜松藩江戸屋敷で侍医となる
  嘉永中 高木芳斎・高木抑斎・上野隆卿等の医師が、医薬用にヨードの製造を試みる
1850年 嘉永3年 1山下玄門、『養生新語』を著す
1854年 安政1年 この頃平久里中村(南房総市)の加藤玄叔、江戸で伊勢長島藩の侍医となる
  文久中 高井村の医師高木恭斎、近江国三上藩北条陣屋の侍医となる
1863年 文久3年 1松岡村(館山市竜岡)の医師福原陵斎、奈良奉行山岡景恭の侍医として奈良へ赴く
    4山本村(館山市)の医師高木芳斎、海防策『房海兵備策』をまとめる
1868年 慶応4年 9治安維持のため房陽神風隊が結成され、布良村(館山市)の川上恭順・犬掛村(南房総市)の池田玄碩・白子村(南房総市千倉町)の石井俊庵らの医師が参加する
1869年 明治2年 館山藩、領民治療のための病院を建設して養生局と称する。
    勝山藩、藩医間玄庵宅を種痘所とするとともに、三医師に領民の診察を任せる。
1872年 明治5年 松岡村の福原有信、東京銀座に調剤薬局資生堂を開業する。
1876年 明治9年 1内務省、医師開業試験の実施を通達。
    5天然痘予防規則によって種痘が義務付けられる。
1877年 明治10年 元長尾藩士東誠一、那古病院を設立。安房地方の近代病院のさきがけとなる。
    11小湊村の沼野玄昌、鴨川のコレラ患者往診の折、暴民たちに殺害される。
1879年 明治12年 7この年コレラが大流行し、布良村で北条警察署の左右田豊巡査が感染殉職。
1880年 明治13年 12県立千葉病院分院として北条病院開設。
1884年 明治17年 1内務省の医師免許規則により、全国統一の医師免許が下付される。
1887年 明治20年 7安房四郡郡部医会が発足。(安房医師会のはじまり)
1888年 明治21年 府中村(南房総市)の医師平松家出身の鈴木勝太郎、柏崎に(赤門)鈴木病院を設立。
1889年 明治22年 中三原村(南房総市和田町)の角田佳一、北条病院を引き継ぐ。
1890年 明治23年 3和田村白渚(南房総市)の石井五郎作、医学発展のために自身の屍体を解剖に提供する。
1891年 明治24年 10富浦村(南房総市)の川名博夫、館山町有志の要望により館山病院を設立。
1893年 明治26年 6東条村(鴨川市)の橋本平二、東条病院を設立。
1894年 明治27年 9安房四郡郡部医会、日清戦役出征兵士遺家族の無料診療を行う。
1901年 明治34年 南三原村松田(南房総市)の石井ミチ、北条町に安房看護婦会を組織する。
1909年 明治42年 4安房郡産婆会発足。
1923年 大正12年 9関東大震災で郡内の医師が救護活動にあたる。北条病院・諸隈医院・鈴木病院などが倒壊を免れ、無料治療を実施する。
1964年 昭和39年 6安房医師会病院開設
192.『医師写真帖』(明治43年)  上野節子氏蔵
192.『医師写真帖』(明治43年)  上野節子氏蔵
193.房州鏡ヶ浦全景絵図(大正5年)  当館蔵
193.房州鏡ヶ浦全景絵図(大正5年)  当館蔵

 大正5年(1916)の館山湾周辺の市街地を描いた観光案内用の地図だが、病院・医院の宣伝が掲載されている。広告が16医院、地図上には他に3医院が見え、かつては狭い街の中に医院がひしめいていた様子がわかる。宮崎県出身の薬丸眼科や佐賀県出身の諸隈医院のように遠隔地から来て開業した医師も多い。