増間のイシャドンと呼ばれた川名家では、幕府の奥医師多紀元堅に学んだ玄栄が知られている。代々の医家であったといわれ、父祐仙も医師であった。玄栄は伝染病の治療を得意にしたとされ、多くの患者が山間の増間まで治療に訪れたという。医療の傍ら私塾を開いて近隣子弟の教育にもあたっており、明治25年(1892)の没(84歳)後、教え子たちによって石堂寺に顕彰碑が建立された。子の玄岱と醇一郎も医師となった。
石堂寺(南房総市石堂)の川名玄栄碑
(明治29年)
増間のイシャドンと呼ばれた川名家では、幕府の奥医師多紀元堅に学んだ玄栄が知られている。代々の医家であったといわれ、父祐仙も医師であった。玄栄は伝染病の治療を得意にしたとされ、多くの患者が山間の増間まで治療に訪れたという。医療の傍ら私塾を開いて近隣子弟の教育にもあたっており、明治25年(1892)の没(84歳)後、教え子たちによって石堂寺に顕彰碑が建立された。子の玄岱と醇一郎も医師となった。
石堂寺(南房総市石堂)の川名玄栄碑
(明治29年)