谷向村の名主家であり、代々医師であったとも伝えられているが、詳細は不明。1838年に没した二伊が医師として知られる。文化14年(1817)に江戸の鈴木宗観に入門して三ケ島流眼科を学んだ二伊の子道順が眼科医として著名である。江戸にも出張所を設けて診療にあたった。『撥翳鍼訣』を著し、浜松藩井上家の侍医になっている。明治2年(1869)没、75歳。息松塘も医学を学んだが、漢詩人鱸松塘として大成した。
119.『撥翳鍼訣』(弘化1年)
当館蔵
谷向村の名主家であり、代々医師であったとも伝えられているが、詳細は不明。1838年に没した二伊が医師として知られる。文化14年(1817)に江戸の鈴木宗観に入門して三ケ島流眼科を学んだ二伊の子道順が眼科医として著名である。江戸にも出張所を設けて診療にあたった。『撥翳鍼訣』を著し、浜松藩井上家の侍医になっている。明治2年(1869)没、75歳。息松塘も医学を学んだが、漢詩人鱸松塘として大成した。
119.『撥翳鍼訣』(弘化1年)
当館蔵