館山仲町で屋号をショウリュウと呼ばれた家で、里見家の家臣の家柄であると伝えられている。享保19年(1734)に没した鈴木又右衛門が医家の初代とされ、明治31年(1898)に没した正立(抱山、66歳)まで7代続いた。代々正立と称し、5代目正立(正儀)は江戸で岑少翁に古医方を学び、6代目正立(東海)は著名な坪井信道に蘭方医学を学んだのち、本庄普一・土生玄碩について眼科を学んでいる。ともに蘭方と漢方を折衷して治療にあたったという。7代目の抱山は蘭医伊東玄晁に学び、その代診をするほどであったという。東海・抱山兄弟は漢詩人として知られ、江戸の文人と交流した。4代目正立は洲崎の出身で生家の菩提寺に筆塚句碑(文政5年)がある。
養老寺(館山市洲崎)にある4代目正立の句碑