天保4年(1833)に産書『産科発明』を著し、東国の産科医として著名な奥澤軒中が出た家である。軒中は解剖と難産治療の経験と顕微鏡を使用した研究などを通じ、独自に工夫した器具を用いて手術を行い、あらゆる難産を安産に導いたとされる。天保10年には江戸の蘭方医坪井信道とともに、平郡内で生まれた双頭児の遺体を解剖している。当時の産科医の技術からは抜きん出た名医であったと評価されている(1841没、78歳)。出産する横で「軒中様」と唱えるだけで安産になったと伝えられているほどである。家号を実測堂といい、養子の軒雄、その子軒中(1888没)まで医家として続いた。
117.『産科発明』(天保4年)
当館蔵
118.奥澤軒中肖像画(天保9年)
奥澤喜一氏蔵