【3】村の医者どん

 戦国時代の医療情報はごく限られた人々のもので、戦国武将は医者を抱え医薬を備えようと努力をしていました。戦国時代の武将の手紙には生薬が贈答品として登場してきています。常陸小田の武将梶原政景は、上総小田喜(大多喜町)の太田康資への手紙で、「そちらには青皮・陳皮・前胡・芍薬が多いので欲しい。こちらの薬で欲しいものがあれば知らせてくれ」と書き送っています。また「私は医師の田代三喜斎をよく知っており、医道に関しては自慢できる」とも伝えていて、こうした医療情報が重要な外交手段にもなっていました。

 江戸時代になると地域医療に携わる医師が各地に登場してきます。その多くは村の名主や旧家の人々で、医書類などから医薬の知識を得て村人に施すようになり、やがてそうした家が代々医師を勤めるようになっていったようです。安房でも江戸時代の後半になると各地で医者どんの姿がみられるようになります。村の医師は周辺地域に師をもとめるだけでなく、江戸や長崎で医療の修学をしてくる人々も数多くいました。村医者の多くは本道と呼ばれる内科医ですが、外科や眼科の専門医や、命に係わる妊娠・出産を専門とする産科医も多くいました。

84.産屋守護三神勧請由緒書 真楽院蔵
84.産屋守護三神勧請由緒書 真楽院蔵

 館山市上真倉の真楽院の由緒書に、戦国時代の安房国主里見義頼の娘が正木家に嫁いで初産のとき、東条氏の家臣だった戸倉玄安が調薬を任され、母子ともに安泰であったと伝えている。安房での医師の存在を示す記録として古いものである。

85.里見九代分限牒(慶長15年)写本

85.里見九代分限牒(慶長15年)写本 
菊井義朝氏蔵

 里見氏の時代の末期、慶長期の里見家家臣を記した分限帳という名簿で、医師頭として里見玄斎、その組下となる医師に大滝陽仙・田島玄喜の名がある。里見氏の一族からも医師が出ていることがわかる。

86.『房総医家人名録』(文政8年)  沼野健氏蔵
86.『房総医家人名録』(文政8年)  沼野健氏蔵

 文政8年(1825)に上総国263人と安房国長狭郡14人の医師を紹介した人名録。長狭のなかに館山市内の医師2人(布良の川上高益・大神宮の吉田文仲)が含まれている。

87.医術営業仮鑑札交付人名表(明治9年) 検儀谷区蔵  (1)
87.医術営業仮鑑札交付人名表(明治9年) 検儀谷区蔵  (1)
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医者どんの分布(明治9年)
医者どんの分布(明治9年)

 明治9年(1876)11月9日付けで、安房地域で従来から医業を行ってきた106人が千葉県から医術営業の仮鑑札を交付された。県内では930人にのぼる。

左:89.高梨玄英医業経歴届(明治9年) 高梨泰輔氏蔵    右:88.医術営業仮鑑札(明治13年) 加藤昭夫氏蔵
左:89.高梨玄英医業経歴届(明治9年) 高梨泰輔氏蔵   
右:88.医術営業仮鑑札(明治13年) 加藤昭夫氏蔵

 仮鑑札の交付申請にあたって、各自の医業経歴が千葉県令に届けられ、仮鑑札が下付された。平久里の加藤淳造の仮鑑札は、白渚村へ寄留した明治16年に書き換えたもの。