本郷村の医者どん・渋谷家(鋸南町)

 本郷村の渋谷家は、京都から来た中村式部が元禄6(1693)に名主の勧めで居住し、渋谷玄隆(1721年没)と名乗って医家になったと伝えられている。代々玄龍と称し、明治41年(1908)に没した彦一郎まで7代にわたった。6代目の玄龍は上総の産科医大牧周西の門で産科を学び、のち長崎に出て緒方洪庵らと蘭方医学を学んだという。彦一郎は明治の初めに東京医学校の助教授、東京衛戍病院長などを勤め、軍医として一等軍医正になったが、晩年は生家に戻って開業した。

 神農図の作者は加藤文麗といい伊予大洲藩主加藤家の出身で、谷文晁の師として知られる。6代目玄龍の門人である船形の医師正木玄修が玄龍から与えられたもの。

101.大牧周西著『産科指南』(文政9年)  当館蔵

101.大牧周西著『産科指南』(文政9年) 
当館蔵

102.神農図  当館蔵

102.神農図 
当館蔵