洲崎村のイシャドンと呼ばれる池田家には、人体の気や血の通り道である経絡を描いた「十四経発揮経絡兪穴骨度之図」3幅が残されている。池田家では明治21年(1888)に没した池田文明(48歳)が知られるほか、その父玄章も医師であった。文明の死後は医師がなく、正木村の高梨玄英が明治22年に届け出た洲崎へ出張診察は池田家からの依頼によるものであろう。
洲崎村のイシャドンと呼ばれる池田家には、人体の気や血の通り道である経絡を描いた「十四経発揮経絡兪穴骨度之図」3幅が残されている。池田家では明治21年(1888)に没した池田文明(48歳)が知られるほか、その父玄章も医師であった。文明の死後は医師がなく、正木村の高梨玄英が明治22年に届け出た洲崎へ出張診察は池田家からの依頼によるものであろう。