里見氏の子孫と伝える家だが近世は名主を勤めず、郷士のような存在の家であった。慶長7年(1602)に没した里見伊斎が医師であったと伝えられ、系図によるとその後も当主や一族から多くの医師が出ている様子が伺える。慶長5年の『黄帝踈女論』(中国の性医学書)や元和8年(1622)の『外療新明集』(外科医書)という古い写本や、元和7年に里見家菩提寺の延命寺で書かれた脈診表(身体の状態を脈診で診断する際の脈象を書いたもの)などの古い資料のほか、天保14年(1843)に没した右膳や跡を継いだ弟の太次郎(後に右膳)に関する資料が残されている。
136.『黄帝踈女論』写本(慶長5年)
菊井義朝氏蔵