現在日本各地で、宅地やゴルフ場開発、土地区画整理事業など、急テンポの土地開発が進行し、それに伴い埋蔵文化財調査も年々増加している。千葉県は全国的にも遺跡が多い県の一つで、約23,000ヵ所の遺跡があり、年間498件の調査(昭和63年度)が行われ、新出土品に関する情報が新聞紙をにぎわしている。
一方、安房では今まで土地開発がさほど進行していなかったことから、埋蔵文化財の調査数は上総・下総に比べて大変少ない。したがって、移籍に関する情報量も当然少なく、安房地方に住むわたしたちは、「安房には遺跡が少ない」という意識をもっているのが現状である。
ところが、リゾート関連の開発が安房地方でもはじまりつつあり、埋蔵文化財調査が大幅に増えることが予想される。それに先立ち、この企画展では安房地方における現在までの考古学研究の成果を振り返る。
明治27年(1894)の天津町(現天津小湊町)清澄山山麓古墳の報告が、安房における考古学研究の嚆矢となる。ついで明治33年(1900)『東京人類學會雜誌』に大野延太郎が行った、東長田村(現館山市)祭祀遺跡の報告は、わが国における祭祀遺跡の報告書として最初のものである。しかし、当時祭祀遺跡への関心は、ほとんど傾けられなかった。
大正時代にはいると、高橋二三雄や三輪善之助が安房国分寺についての報告を行っている。また、大正8年(1919)に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法に関して、以後行われた調査により、豊房村(現館山市)南条及び東長田横穴群、神戸村(現館山市)佐野洞窟、東条村(現鴨川市)広場古墳などが報告されている。
昭和4年(1929)には、神戸村安房神社洞窟遺跡の調査を大場磐雄が行い、22体の人骨が出土し、抜歯の存在が確認されているほか、昭和7年と9年の2回、短期間ではあるが、平野元三郎と滝口宏によって、安房国分寺の調査が行われている。ところが、この頃になると東京湾岸地域が、軍事的な要塞地帯であったため本格的な調査は行われなくなり、組織的な調査が行われるのは、昭和23年(1948)の豊田村(現丸山町)加茂遺跡の調査まで待たなくてはならない。
人骨(館山市安房神社洞窟遺跡)
弥生時代