健田郷とは

 古代律令国家は、地方を国・郡・里という行政組織にわけた。律令制を支えた民衆の大半は農村に居住し、班田を支給される農民であった。国家は農民を原則として50戸ごとに「里」としてまとめ、律令制の末端への浸透をはかったが、「里」はのちに「郷」と改称される。

 平城京跡から、「養老6年(722)10月に、安房国健田郷から鰒(あわび)を献納する」という内容の木簡が発見された。他に、天平17年(745)の同内容の木簡も出土しており、ここから「健田郷」さがしがはじまったのである。