すでに縄文時代から海は交通路として利用されています。古墳時代になると伊豆半島方面から房総半島を経由して常陸(ひたち)方面に向かう「海の道」が重要な交通路であったことが想定でき、房総半島突端の野島崎灯台の近くには、太平洋の交通路を探るうえで重要な小滝涼源寺(おたきりょうげんじ)遺跡があります。海岸までの距離がわずか400mほどのところから、火を焚(た)いたまつり跡などとともに3万点の祭祀遺物(さいしいぶつ)がみつかりました。遺物はほとんどが土器片ですが、土師器・手捏(てづくね)土器・石製模造品(剣形・有孔円板(ゆうこうえんばん)・勾玉(まがたま)・臼玉(うすだま)など)や鉄製品(剣など)といったものがみられ、4世紀中頃から5世紀はじめを中心にまつりが行われていたことがわかります。
海の道に面した場所での祭祀というと、玄界灘(げんかいなだ)の沖ノ島(おきのしま)や能登(のと)半島の寺家(じけ)遺跡がありますが、それらには中央政権による国家祭祀という共通点があります。小滝涼源寺も海路に近いうえ火を使うという特殊なまつりで、鉄剣などを用いていることから一氏族のまつりとは考えにくく、畿内(きない)政権の関わりが強く窺(うかが)えます。石製模造品を用いた祭祀遺跡としては全国的にみても古く、また従来5世紀中頃に登場するものだと考えられていた剣形・有孔円板・勾玉・臼玉が4世紀末に使われていることから、多くの議論を呼んでいます。
これから紹介する、土製模造品に象徴される安房の古代祭祀遺跡とは全く異質の遺跡で、畿内政権が強く介入し、海上交通の安全を願った神まつりが行われていたと考えることができます。
(以上、朝夷地区教育委員会蔵)