鈴鏡(れいきょう)は上野(こうづけ)・下野(しもつけ)を中心に6世紀前半に流行しており、県内では特異な出土状況の鴨川市嶺岡(みねおか)のほか、君津市戸崎古墳の例があるだけで、房総はその分布圏の外にあるといえます。
この時期の関東の古墳文化の地方色をあらわすのは、鈴鏡と形象埴輪(けいしょうはにわ)だとされています。そしてこの地方色から、国家的な祭祀(さいし)である古墳祭祀に東国独自の内容が盛り込まれ、畿内(きない)政権の規制が部分的に崩されているとして、関東地方の豪族(ごうぞく)が政治的に成長しているという指摘があります。この鈴鏡のまつりが行われたのは、毛野(けの)の権力の増大に危機感をもった畿内政権が、国家の再編をはじめた5世紀末から6世紀末までとされていて、それ以降は独自の地方色は強制的に消されたと考えられています。
なぜ鈴鏡の分布圏の外にあった安房で、鈴鏡(れいきょう)や鈴釧(すずくしろ)などの鈴付銅製品の模造品を使ったまつりがおこなわれたのでしょうか。高塚古墳が少ないこの地の神まつりに、東国の埴輪まつりの要素が取り入れられた理由は謎です。ただ両者ともきわめて地方色が強い、という共通性には注目できます。安房に独特な宗教文化がめばえた背景には、畿内政権との微妙な関わりがあったのかもしれません。
36.五鈴鏡
伝君津市戸崎古墳
宮崎洋史氏現蔵
37.四鈴鏡
伝いわき市平横山台古墳群
38.五鈴鏡
伝藤岡市藤岡
39.六鈴鏡
40.七鈴鏡
(以上、五島美術館蔵)